第10回 賃借人の原状回復義務(後編)
1 はじめに
前回ご説明した原状回復義務の基本を踏まえ、実際の裁判例でどのように判断されているのかをいくつかご紹介したいと思います。
2 裁判例
(1)賃借人は、建物を通常どおり使用していたことにより生じた損耗(通常損耗)については原状回復義務を負いませんが、この通常損耗に当たるか否かが争われるケースは多く見られます。
この場合、裁判例では、賃借人の使用方法や損傷の程度などの諸事情を踏まえて判断されています。たとえば壁や天井のクロスにタバコのヤニが付いている場合、一般的には通常損耗を超えるものとして賃借人が原状回復義務を負うことが多いと思われますが、その一方で、建物内での喫煙が禁止されておらず喫煙の頻度も少なかったことから通常損耗にとどまるとされた裁判例もあります。
また、猫を飼っていたために糞尿の臭いが染み込み、柱もかじられて損傷した事案では、原状に戻すための大掛かりな工事につき賃借人の負担が命じられました。一方、猫の飼育が許諾されていた事案につき、猫の臭気が残留するのはやむを得ないとして通常損耗と判断したものもあります。
(2)原状回復義務の有無・範囲を判断する際には、建物の老朽化の程度なども考慮されています。
たとえば、経年劣化が進んでいた古い建物で、階段部分に生じた汚損・破損の原状回復義務が争われた事案では、建物の耐用年数や入居時の築年数等を考慮し、賃借人の負担を原状回復費用の30%にとどめるものとしました。また、別の事例では、天井・壁のクロスや床のフロアパネルについて全面的な貼替えの必要があるとしても、これらは退去時すでに耐用期間を経過していたことから賃借人負担が否定されています。
(3)賃借人が通常損耗も含めて補修する旨の特約(通常損耗補修特約)が定められることがありますが、この特約が有効とされるためには、賃借人が補修する通常損耗の範囲が明確に定められている必要があります。たとえば、建物の損傷箇所の補修や、具体的に列挙された各部位の取替・清掃につき、「原因の如何にかかわらず全て賃借人が原状回復する」旨の条項が定められていた事案では、通常損耗分も含めて賃借人の負担とすることが認められています。
(4)退去時のクリーニングを賃借人が行う旨の条項を定めることもありますが、どの程度のクリーニングを要するかが問題となった事案では、専門業者に行わせることを特に義務付けている場合等を除き、賃借人が使用中に行う清掃と同程度のものがなされていれば足りるとされました。クリーニングの内容までは定めていないことも多いので参考になる事案です。
(5)店舗等の賃貸借契約は、内装や設備を全て撤去したスケルトンの状態で締結されることも多く、その場合は、(契約内容にもよりますが)基本的には賃借人が退去時に再びスケルトン状態に戻す義務を負うケースが多いと思われます。
裁判例では、契約時に設置した設備(店舗の壁紙、ボード、照明器具等)については賃借人の撤去義務を認めたものの、カウンターについては契約時に設置したとは認められないとして撤去義務を否定したものがあります。
3 終わりに
原状回復義務が争われた裁判例では、契約内容、使用方法、損傷の程度など、事案に応じて様々な事情が考慮されています。具体的な事情が分かれば、ある程度訴訟の見通しを立てることができますし、新たに賃貸借契約を取り交わす場面では紛争防止のために条項を工夫することも可能ですので、もし原状回復義務に関して気になることがありましたらお気軽にご相談ください。
(著者:弁護士 戸門)